No.139 お坊さまと白尾の狐 その10(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです

 

その34

その為、中には、今のお前のように、こういった輪廻転生の輪の中での厳しい修行に耐え切れず、それまでの折角の修行を投げ出して、妖怪達の誘惑に惑わされて異世界、すなわち仏敵の方角へと、逸れて(それる)行こうとする者も出てまいります。
しかし、それは仏の本意ではありません。
だから、そう言った事態になるのを、できる限り防ぎたいという仏の御心によって、お前の場合は私がつかわされてきたのです。
今、お前が誘われて行こうとしているその世界は、一旦足を踏み入れたら最後、そこから抜け出す事は殆ど不可能と言っていいほど抜け出し難い所です。
一旦そちらの世界へ行った魂は、怒り、恨み、憎しみといった怨念の満ちみちた暗黒の世界で、善良な魂を堕落させて悪に染めたり、安らぎを奪いとって、不穏と喧騒の世界にぶち込んだり、幸せに過ごしているものの不幸のどん底に落としこんだりと、
少しでも善良な部分が残っている魂にとっては、とても耐えられないような仕事をさせられ続ける所です。
しかも、もしそれを怠り(なまける)、少しでも逡巡(しゅんじゅん:しりごみすること)したりした者には、地獄での責め苦なんか問題にならないくらいに辛い責め苦が待っています。
たまりかねて逃げ出そうとしても、その世界は、そこに入った魂たちの流した悔恨(かいこん:後悔して残念に思う事)の涙で出来た大海原で囲まれていて、逃げ出す事はできません。
逃げだそうとして、その海に飛び込んだものは、その暗黒の大海原を、当て所(あてど:行く先)もなく、永遠に漂い続けなければならないのです。
何とも因果な話しです。
「お前は、もっと古くさかのぼれば、もとは仏の座の最も近くにいた魂です。
さらなる修行を積んで、仏となる為に、人間界に降りてきたのです。
ここでの修行によって、衆生を済度する力(生きとし生けるものを迷いの苦界から救いだす力)を高める為に、やってきたのです。
ところが、与えられた人間界での試練は、あまりにも厳しく、お前の人としての弱い部分が曝(さら)け出されてしまうのです。
その為、それをなかなか克服できないで、何度も、何度も転生をくり返す事になってしまっているのです。
そしてそれを繰り返すうちに、悪い因果の輪の中に囚われ、固く閉じ込められて、もがき苦しんでいるというのが、現在のお前の姿です。
お前は不思議に思いませんでしたか。普通の人には見えていないらしい妖精だとか、精霊といったもの達を、お前だけが幼い時から見られた事を。
また、幼い頃から、そう言ったものたちがお前の遊び相手になってくれていた事を。それはお前が特別な魂を持った存在だったからです。
あの子達はお前を、陰で支え、修行が無事に終わるのを見守っていてくれている存在でした。
それは、お前がそれほど特殊な存在であり、仏の世界から期待されている存在であるという事を意味しているものです」

 

その35

「僕、これ以上恐ろしい事や、苦しい目に遭うの、もう嫌だよ。仏になんかならなくてよいから次郎吉(腹違いの弟)みたいに、何の苦労もないそんな生活の方が良いよ」
「確かにこんな幼いうちから、こんな試練に出遭うことになって、お前は大変だったろうね。でもね、これは過去から続いてきた因縁によるものだから、避ける事は出来ないのだよ。お前は次郎吉の事を羨むけど、次郎吉だって,今生(こんじょう:今の人生の意)では、ぬくぬくした、とても良い生活をしているみたいに見えるけれど、前世では色々苦労をしてきているんだよ。
その上、あの子は、お前より、まだまだ下の段階での修行の最中の魂です。だから、これから先、あの子の生き方次第では、今後どんな過酷な試練が待ち受けているかわからないのだよ。もし今世において、仏の教えに背くような事をすれば、死んだ後待っているのは地獄の釜の口。その魂が本格的な修行の場に戻れるまでには、そこでの過酷で長い、責め苦による贖罪の期間を経なくてはならない所まで逆戻りする事だってありうる魂なのだよ」
「でもね、昨夜僕に付きまとったあの黒い奴ら、あれって悪魔というの?
あいつらがいうには、あいつらの所では、『修行なんか必要ない』ということだったよ。
『恨みだとか、憎しみ、怒り、妬み等といった感情を持ってさえすれば、自分の思うまま、面白おかしくやっていける』という話しだったけど」
「そういう、うまい話をしては、修行中の魂を誘惑して、妖怪の世界へと引っ張り込んで行くというのが、あいつらの常套手段だよ」
「でもね、あいつらの言葉を真に受けてはいけないよ。
あいつらの世界に真実だとか、誠実等といった言葉はないのだから。
嘘をつくのだって、騙すのだって、平気だよ。
なにしろそういう言葉の観念すらない世界に生きている奴らなんだからね。
妖怪だとか悪魔なんて、そういう奴らなんだよ」
「もしお前が、あいつらの言う事を真に受けて、あちらの世界へ行くというのなら、その意思を止める力は私にはないよ。
でも、その世界に入ろうものなら、お前に待ちうけているのは、先ほども言ったように、これまでしてきたお前の娑婆での修行以上に過酷な状況が待っている事を覚悟しなければなりませんよ。
それでも行きたいというのでしたら、それはお前の意思にまかせるよりしかたがありません。
でもね、憐れみだとか、同情、善意等という感情を一切捨て去る事が、お前の性格で本当にできると思いますか?
憤怒、怨恨、憎悪、妬みなどといった感情しかない、安らぎの全くない苦の世界で、お前は、生きていけると思いますか。
そんな事は無理と思ったら、絶対にあいつらに近寄っては駄目だよ。
よく考えて決めなさいね」
「お前のような、仏になる寸前の魂を、その修行中に、自分達の世界へ引っ張り込もうと悪魔たちが暗躍するのは、お前の場合だけではないんだよ。
なにしろあいつらにとって、衆生済度を志す仏が、新たに誕生してくるくらい、嫌な事はないのだからね。
あいつら、畏れ多い事に、お釈迦さまの修行中にでさえ、ちょっかいを出した奴らなんだからね。
だから、仏の座まで、もう一歩というお前たちみたいな娑婆での修行者に、それを阻止しようと色々誘惑してくるのはあたりまえの事なんだよ。
それも、修行中の試練の一つなんだから、うまい言葉に騙されて、誘惑に乗らないようにしなくちゃ。
それを乗り切った先にこそ、仏への道がひらけてくるのですから。
お前は修行の辛さを嘆き、何もしないでも、楽しい生涯を送れそうな弟の事を羨みます。しかしお前が修行の為、これまでに使ってきた時間なんか、悠久の時の流れ、即ち仏の時間の中では、そんなのは、ほんの一瞬でしかないのだよ。
だから、今迄の苦労だって、お前の魂が、衆生済度の大願を果たし、阿弥陀如来と一体化した後に訪れる、満足と、安らぎの永遠なる時間に比べれば、星の瞬く間の出来事にも当たらないのだからね」
「目先の修行の辛さを厭って(いとって)、ここに残り、悪魔や妖怪の苦の世界に飛びこむのか、永遠なる安らぎを求め、更なる修行の道へと歩み出そうとするのか、さあ、もういい加減決めておくれ。
それはお前の問題なのだから。
しかしそれを決めるのは,今しかないのだよ。
何故なら、お前を新たな修行の場に移動させる為の道の、閉ざされる時間が迫っているのだからね」
と狐が言います。
やがて、狐の銀白色の尻尾が、燐光(りんこう:青白い光)を放ちながら点滅を始めました。
それが出発の時間が近づいている合図である事はなんとなくわかりました。
掬佐が「ここに残る」と言えば、狐は、彼をここに於いて、自分だけで旅立っていくつもりの様子です

 

その36

「終わったよ。さあ目をお開け」と頭の中に直接話しかけてくる(テレパシー)、狐の声なき声。
目を開けた掬佐が目にしたのは、全く見知らぬ光景でした。
大きな木々のそびえる深い森、その森を背景に立っているお寺の建物の数々、掬佐はその大きな建物群に圧倒され、しばらくの間、声もなくみつめておりました。
どうしてこんなところに連れてこられたのか、意味が分かりませんでした。
「今日からここで修行するのだよ」と狐の声。
そんな事を言われても、子供の自分を受け入れてくれるところがあるとはとても思えません。
こんな大きなお寺で、何の伝手(つて)もない自分が
「お坊さんになりたいから弟子にしてほしい」と頼んだとしても、
相手にされるとは到底思えません。
うろうろしていたら、乞食と間違えられて、追い出されるのが落ちだろうと思いました。
「いや、お前が弟子入りするのは、この大きなお寺のじゃない。
こういう大きなお寺というのはね、それを維持して行く為に、朝廷だとか、大名、土地の有力者の庇護をうけるでしょ。
だからどうしても、形式主義、権威主義的になりがちです。
よって、こういう所に入ったとしても、お前が必要としている修行はできないだろうね。お前のような何の伝手もないものは、お前の思っているとおり、無論、入れてもくれないけどね。
このお寺の裏側に、小さな庵(いおり)を結んで、国中を行脚しながら衆生済度をしていらっしゃるお聖人(しょうにん)様がいらっしゃいます。
その方こそ、輪廻転生する、宇宙の真理を説き明かし、お前を仏の座へと導いて下さるお方です」
「でも、僕のようなこんな小さなもんが、一人で訪ねて行っても、その方、お弟子にして下さるだろうか。その方、今言われたように、全国を歩いて回られているというのでしたら、僕なんかがいれば、足手纏い(あしでまとい)になるでしょ。
貴女は一緒に来てくれないの。一緒に行って、頼んで下さらないの」
「一人で行ったとしても大丈夫よ。あの方はそんなお方ではないから。あの方のように本当の修行を積んでこられた方は、何事も、一目見ただけで、本質をお見抜きになる力を持っていらっしゃるからね。
だから一人でお行きなさい、それも一つの修行です。
元来修行というのは孤独なものです。
例えお前が、あのお方のお弟子になったとしても、あの方は道をお示しくださるかもしれないけど、後はお前一人で歩んでいかなければなりません。
私の役目は、今の所ここまでです。
この後は、お前が悟りを開き聖人になられた時、またやってまいります。
私の本来の役目は、悟りを開かれた貴方にお仕えする事です。貴方が衆生済度の旅に出られる際は、貴方のお伴をさせていただき、お手伝いさせていただくつもりです。
では、お行きなさい。
何時になるか分かりませんが、貴方が悟りを開いて帰ってこられる日をお待ちしています」
というと狐の紅葉尼は、暗闇の中に溶け込むように消えていきました。
彩乃の夢の映像も、そこではたと終りました。後は、何も見えない真っ暗な闇の世界が広がっているだけとなりました。
彼女はそのまま、何もみられない、深い、深い眠りの世界へと落ちていきました。

次回へ続く