No.99 子孫のために美術品も遺さず? 後篇

その5

 

長女は出産後3ヶ月くらい経った時、詫びをいれるためと、結婚についての親の承諾を得るために、一度だけ、相手の男性と子供を伴って、両親の所を訪ねてきたことがありました。しかし怒っていた父親は、娘にも、相手の男にも会おうともしてくれませんでした。父親に追い返され、やむなく裏口から、そっと入ってきた娘の顔を見て、母親はさすがに喜びましたが、それは娘が身近に戻ってきてくれた事を喜んでいるだけで、それ以上、娘のために何をしようとしてくれる気もありませんし、またそんな力もありません。長女は自宅に帰ってきたことによって、改めて、天涯孤独になった思いを噛み締めさせられました。その日彼女は、父親への怒りをぶっつけるように、父親の目を盗んで、家の中のあちこちを物色し、自分名義の貯金通帳や印鑑、身の回りの物などをかき集め、黙って持って帰りました。
自宅から持ち帰った彼女名義の貯金通帳の中には、思いもよらぬ大金が入っているのも含まれていましたが、父親の態度に怒り、絶望し、反抗的になっていた長女は、私名義になっているのだから、貰っておいても、当然と自分に言い聞かせ、父親の方に何の連絡もせず、そのまま箪笥にしまい込んでしまいました。診察から戻ってきてそれに気付いた先生は激怒しました。黙って見ていた奥さんを、さかんに責めました。しかし今では、感情を失って自分の内なる世界に閉じこもってしまっていた奥さんは、何の感情の動きも示しませんでした。娘のところへ電話をかけるといった関係すら、自分で絶ってしまった先生は、そうなりますと怒りの持って行き場もなく、「もう二度とあいつに家の敷居をまたがせるな。」奥さんに当り散らすくらいしか、術(すべ)はありませんでした。

 

その6

息子さんの方はといいますと、先生は、我が子に自分の跡を継いでもらいたいと期待していらっしゃいましたから、小さい時から勉強の事をやかましく言われ、何かと干渉されました。しかし何しろ先生は開業医としての仕事も、家の雑事も、看護婦の募集や監督も、何もかにも、一人でしなければなりませんから、子供の勉強までも見てやる時間などありません。そこで小学校に入って直ぐから、ベテランの家庭教師をつけられたのですが、家庭教師は所詮他人です。その上、四六時中付いていてくれるわけではありません。したがって成績は思ったように伸びず、中学受験に失敗してしまいました。そうなりますと先生は期待が大きかっただけに失望も大きく、それから後、息子を見る目が変わってしまいました。もともと神経質で気の小さい所のあった長男は、そんな先生の態度の変化を敏感に感じ取り、地元の中学に通いながらも、家にいるときはおどおどとして、息を潜めるように父親の目を避けて生活していました。息子への期待を裏切られた先生は、もうこの子はお金で医者にするより仕方がないと割り切られたようで、中学二年で、他の比較的入りやすいといわれている私立中学に編入させました。そしてその後は、お金で大学の医学部直通の高校に進ませ医者にしました。しかしこのことを何かにつけて持ち出されるものですから、長男はますます家が嫌いになっていきました。従業員達の噂によりますと、子供を大学で行かせるために、随分なお金を使われたようすですから、先生が恩着せがましい言葉を口にだされるのも、最もだったかも知れませんけどね。

 

その7

大学に通うようになられた長男は、親から離れて生活できるようになった事で、何かから解放されたかのようにのびのびしてきて、思いっきり羽を伸ばし、遊び呆けるようになりました。大学は二度留年し、国家試験にも一度失敗、医師になるのに普通の人より3年も遅れてしまいました。しかし比較的早くから親から離れ生活したせいで、両親の呪縛はあまり受けずにすみました。人付き合いも上手く、おっとりした人の良さは、誰からも好かれました。しかしそんな彼を周りの女性が放っておいてくれません。彼が医師国家試験を合格した時には既に、開業医の娘さんと同棲し、もう子供さんまで出来てしまっていました。先生の想いは、ここでも裏切られました。息子さんは奥さんの実家近くに家を作ってもらわれ、そちらの方にいってしまったからです。息子さんの奥さんの実家は、これが又、非常に温かい雰囲気を持った良い家族で、両親は共に穏やかで親切、世話好きです。子供たちに対しても、一人一人の人格を尊重し、気長に子供たちの言い分に耳を傾けてくれます。教育方は、子供たちの短所を矯める(ためる)のでなく、長所を褒めて伸ばすといった方針をとっておられました。こうしたご両親でしたから、長男が国家試験に失敗した時も、決して馬鹿にしたりされませんでした。落ち込んでいる彼を親身になって心配し、慰め、励ましてくれました。彼等は、おっとりしている長男のことを、育ちの良さの滲み出ているようだといって好いてくれていました。彼が訪ねて行くと、最大限に歓待してくれ、まるで暖かい親鳥の羽の下のような安らぎを感じさせてくれました。子供のときから、他の子と見比べられ、厳しい父親に、鞭打ち続けられた長男にとっては(精神的にですが)、この人たちとの出会いは大きな救いで、彼等によって始めて、厳しかった父親にたいする、コンプレックスから解放され、自信を取り戻すことができました。従って、医者になってからまで、先生の所に帰って、父親へのコンプレックスに押しつぶされそうな日々に戻るなどというのは、今ではもう考えられないことでした。先生からどんなに懇願されても、どんなに怒られても、結局、長男は先生の所に戻ってくるとは、言いませんでした。先生の激怒も、恩着せがましい言葉も、成長した息子さんに、もう脅しが通じることはありませんでした。お互いが傷つき、二人の間の溝を深め、修復不能な決定的な破綻をきたしただけでした。

 

その8

息子さんが絶対に戻って来ないと分かってから、3年後位、それまでの苦労が祟ったのか、ストレスが重なった為か、先生は脳卒中で倒れられ、意識が一度も戻る事もなく、1週間後くらいに、そのまま亡くなってしまいました。先生の所は、何もかにも、先生一人で仕切っていましたから、突然先生に亡くなられますと、家の中が、どうなっているのかを知っているものがいませんから、残された者は困惑してしまいました。奥さんはおろおろしているだけです。自分の今後のことが心配で、それだけで頭の中が一杯となり、他の事に気が回りません。皆がいろいろ相談しても、うわの空、ピントが外れた返事しか返ってきません。子供さんたちも、早くから家を出てしまっていて、絶縁状態となっていましたから、何も聞いておりませんから、全く分かりません。先生はきちんとした性格の人で、お金の事などは比較的整理してありましたから、葬儀代金などといった、当座のお金のやりくりに困るような事がなかっただけが救いでした。しかしあんな状態の奥さんと、子供さんたちで、この後どうしていかれるのだろうと、葬儀に参列した人々は皆、心配しておりました。

 

その9

その後、どのようにされたかは分かりませんが、遺産相続のことで長女と、奥さんとの間がもめたとかで、先生が亡くなられた後も、長女が奥さんの面倒を見るために顔をだされることはありませんでした。奥さんの話し振りでは、長女の旦那は結構欲張りで、少しでも多くの物を彼女の家から取ってこさせようとするので、危なくて仕方がないとのことでした。奥さんは相変わらず引篭もり状態で、家の中は散らかり放題、買い物も殆ど出ません。何を食べ、どんな生活をしていらっしゃるのか赤の他人である私でも心配なのに、娘さんも、息子さん一家も、顔を出される事はありませんでした。このため隣にいる私(小母ちゃん)が時々顔を出して、手助けをしてやるより仕方がありませんでした。しかし何しろ奥さんは不精で、何もしない人でしたから、その散らかりようは大変なもので、整理といっても、何処から手を付けたらいいのか、見当が付かないほどです。買い物も、私(小母ちゃん)がついでの時、買ってきてあげたのですが、金銭には結構、細かくて、買ってきたものに対して、多すぎるとか、高すぎるといった具合に、一々文句を言われました。こちらは好意でして上げているのにそんなですから、もう二度とやってやるものかと思える時も再々ありました。しかし怒って顔を出さないでいますと、何日も経たないうちに、電話が掛かってきます。窮状を訴え、手伝いを頼んできます。するとつい気の毒になって、又顔を出してしまうというような状態で今日までやってきました。あそことの関係は、せいぜいそんな程度です。ところで奥さんは、その後もずっと塞ぎ込みがちでした。内に閉じこもり、自分からは殆ど何もしようとしません。しかしお金や物にたいする執着心だけはとても強い人で、先ほども申しましたように、金銭の事は一円も疎かにしませんでした。頼まれて、家の中の整理をしにいった時などでも、何か盗られるのではないかと、警戒している様子がありありで、とても感じ悪く思ったことも、少なくありません。だから私も、高価そうな物には、なるべく近寄らないようにしていました。奥さんの方も、先生の書斎だとか寝室といった、大切な物の入っていそうな部屋は、絶対に近づけないようにしておりました。お隣さんとは、比較的親しくしていたように、皆さん思っていらっしゃいますが、本当はこの話の通りで、私が見るに見かねて助けにいっていただけの表面的なお付き合いです。従ってあそこの家の内実はあまり知りません。先生が生前、集めておられた物も、何があったのか私はしりません。だけど奥さんの方も、欲の皮を突っ張らせて、囲い込んでいただけで、それをきちんと整理しようとか、保存に気をつけようとしている様子はまったくありませんでした。まして、先生が集めておられた物の、本当の価値を知ろうと、勉強したり、努力したりするようなことはありません。従ってどんな物があって、それがどんなふうに価値があるのか、奥さんは、全くご存知なかっただろうと思います。

 

その10

ところでその奥さんも、先生が亡くなられてから6年目位のある朝、心筋梗塞で急死されてしまいました。数日間、電話が掛かってこなかったので、どうされたのかと思って訪ねていった所、ベッドに倒れたまま死んでおられる奥さんを見つけました。一応不審死として警察も調べられたようですが、家の中を荒らされた形跡もないことや、前から他のお医者さんに掛かっていて、狭心症の傾向があるといわれていた事などから、病死として処理されました。
主人が亡くなられた後の家というのは、落城後のような感じがします。儚いものです。子供さんたちは、家にも、家の中の物にも、何の未練ももっておられなかった様子で、奥さんが亡くなられると、一周忌が終るのをまって、家ごと全てを処分してしまわれました。あんなにも先生たちの努力や思いが詰まっていた家も、小さなコンクリートの固まりとなって処分場に棄てられてしまい、先生が心血を注いで蒐集され、私たちの目にも触れさせようともされなかった、コレクションも、塵やガラクタと一緒に、ひとつ残らず解体屋さんに持っていかれてしまいました。その後このコレクションがどのようになっているか、知る由もありません。医院の建っていた後には、今では何も残っておりません。ただ黒い土が寒々とむき出しになっているだけです。土地を売られたお金は、お子さん達がどのようにして分けられたのか知るよしもありませんが、その後、長女の方は、バーテンとは別れられることになり、今では親子二人でアパートに住んでおられるという話です。もう少し離婚が遅ければ、相続で手に入れられたお金さえも、あの男にむしりとられてしまっていただろうから、そうなる前で、不幸中の幸いだったと、皆は噂しております。

 

その11 結び

こういった話は、この例に限らず、市井ではよく聞く話です。そういった話を聞く度に、私は思うのですが、美術品のコレクターというものは、自分が楽しむだけでなく、その楽しんだコレクションを後の世に伝えていく義務があるのではないかということです。
自分がお金を出して買ったものだから、自分がどうしようと勝手というものではありません。
コレクションをするのと同じくらいの情熱をもって、それを後の世に伝えていくように努力すべきです。それが私たちの時代の文化を、そして私たちが今まで受け継いできた文化を、次の世代に伝承させていくことに繋がる道であるからです。

終り