No.80 おばあちゃんの話 その3 河童

始めに

今回は父の里に伝わっていた河童伝説を掲載させていただきました。夏休みの楽しみの一つにでもなれば幸甚と思っております。

 

その1

河童と言いましても、今の子供達は知らない子の方が多くなっているかもしれませんね。例え知っている子がいたとしましても、それは昔話の世界の話として割り切って考えていて、実際に存在しているなんて信じている子は、よほど変わり者以外は、いらっしゃらないのではないでしょうか。しかし、まだほんの少し前、それは今から百年もならない前、父の子供時代だった頃の事ですが、その頃には、子供達は無論のこと、大人達の中にも、まだまだ、河童が本当にいると信じている人の方が多かったそうで、旧暦の6月1日に行われる、川の神様を祀る天王祭りになると、何処の家でも河童の好きだと言われている胡瓜を川に流し、茄子や胡瓜、トマトなどといった野菜で作ったいろいろな動物を家の前に並べて、その年の川での安全を祈ったといいます。現に祖父の二代前の鉄三郎さんなどは、実際に河童に助けられた事があったとかで、お酒が回って来ると、何時もそんな話が口をついて出てきたと言います。

 

その2

父の実家は、長良川の下流、一夜城で有名な墨俣(すのまた)という宿場町の川向にある小さな寒村にありました。そこらあたりになると、長良川も、結構、川幅が広くなり、川の所々に深い澪(みお)があり、橋のなかったその頃は、川を渡るのも大変だったそうで、墨俣というと、実際はほんの目と鼻の先にあるお隣の部落であるにもかかわらず、昔は、川向こうというだけで、今で言う隣国ほどの遠さを感じていたそうです。川の両岸、蛇行する川の流れの突き当たるところには、柳や潅木の生い茂る突堤が築かれており、勢い良く流れてきた水は、そこで淀み、渦巻き、深い紺碧色の淵を作っておりました。そんな淵の一つ、川向こう、墨俣に近い所にある淵は特に深く、そこには昔から河童が住んでいるといわれており、淀み、たゆたう水の流れは、次々と小さな渦巻きを作りながら、水中へとすいこまれ、暗い水の色と共に見るからに不気味な様相を呈しておりました。村の子供達は、小さい時から、その淵にだけは、絶対に近づいてはならないと、親からきつく、止められていたものでした。昔はこのあたりにも、川漁師といって、川の魚を獲って生計を立てている人達がいたのですが、そんな人たちでさえ、そこには大きな魚がたくさん見かけていたにもかかわらず、絶対に近づきませんでした。
大人たちから聞いた話では、河童は、蚕豆(そらまめ)のような鶯色の肌に、水草のような濃い緑色の髪、亀のような甲羅、そして金色に輝く金壷眼(かねつぼまなこ)と尖った嘴(くちばし)をもった動物で、普段、その淵の底に住んでいて、人が近づいてくると、腕をのばして、水の中へと引き込み、お尻の穴から精気を吸い取ってしまうというものでした。胡瓜が大好きで、天王様の祭りの日に胡瓜を供えてくれた家の人間だけは、そのお返しとして、絶対に襲わないとも言われておりました。
鉄三郎さんの子供の頃にはもう、河童の姿を見ることは全くなかったそうですが、もっと大昔、まだこのあたりも家が疎らで、人も少なかった時代には、人間と河童は、仲良くしていて、河童は魚、若い衆は胡瓜をかけて、相撲をとったりしていたものだったそうです。こんなときの河童は、結構悪戯っ子のような可愛い所があり、勝った時は得意満面な顔をして、両手を高く掲げ、踊り歩くのですが、負けた時はブスッと膨れ面をしたまま、口を尖がらして、川の中に潜っていったかと思うと、顔も出さないで、川の中から、大きな魚を岸の方に投げてよこしたという話です。

 

その3

鉄三郎さんがまだ子供の頃、7歳ごろのことでした。その頃、悪ガキ達の川遊びの一つに、長良川の横断ごっこというのがありました。長良川を向う岸まで泳いで渉る遊びです。浅い所は出来る限り歩いて、深いところに来ると、泳ぐという形で横断するのですが、長良川も下のほうともなりますと、川幅の広い場所は、長い距離を泳がなければならず、狭い所は流れが強く、しかも川の真ん中に、深い澪が在ります。そしてその澪は雨が降る毎に深さも場所も変わって一定ではありません。ついこの間までは、そんなに深くなかったと思うところが、次横断するときには、どんなに潜っても底に足がつかないほどに深くなったり、2倍にも、3倍にも広がったりしています。従って普通12~13歳以上くらいの、比較的大きい子供たちだけしかしない遊びでした。所がその夏は、長く続いた旱(ひでり)の為に、川の水かさが非常に少なくなり、川幅の狭くなった所の向こう岸なら、ほんの目と鼻の先にあるように見え、鉄三郎さん達のような小さな子供でも、雑作なく渡れるような距離に感じられました。

 

その4

それは夏も終わりに近い日の昼下がりのことでした。朝からの遊び、砂遊び、水遊び、魚獲りにも飽きてしまった鉄三郎さん達悪餓鬼三人は、水かさの減った長良川を見て、「この程度の川幅なら、自分たちにだって渉れるのではないだろうか。一遍、自分たちだけで渉って、年上の子たちの鼻をあかせてやろうじゃないか。」と、衆議一決、横断に挑戦することにしました。鉄三郎さん達は、一歳年上の子を先頭に、一番川幅の狭い場所のやや上手(かみて)の所から、泳ぎ始めました。鉄三郎さんも無論続きました。しかし泳ぎ始めて直ぐに気づいた事は、川の流れが思っていたより速いという事でした。とても速くて、泳いでいるより流されているといった感じになってしまいました。つい目と鼻の先と思っていた向こう岸が、どれだけ泳いでも、同じくらい遠いところにあります。泳いでも、泳いでも、一向に目的の岸は近づいてきません。怖くなって戻ろうと思って振り返ってみましたが、泳ぎ始めの岸からも既に遠くに離れてしまっています。鉄三郎さんは途方にくれました。腕も足も次第に重くなってきてしまいました。心細くて泣きたくなりました。
そんな時、こんな気持ちに更に追い討ちをかけるように、川の水は突然冷たくなり、川底のほうへと巻き込み始めました。澪にさしかかったようです。取り乱した鉄三郎さんは、そこから早く脱出しようと、無茶苦茶に水を掻きました。しかしそれは、鉄三郎さんが水の中に沈むのを、早めることになっただけでした。呼吸をするごとに、冷たい水が、口と鼻から容赦なく入ってまいりました。そしていつの間にか水の中にと沈んでいってしまったのです。彼が意識を失う瞬間に見たものは、周りに拡がる不思議な水色の世界と、上から差し込んでくる、穏やかな金色の丸い光でした。何かに抱かれているような、とても安らかな気持ちだったそうです。不思議な事に苦しかったという記憶は全く残っていないと言います。

 

その5

それからどれくらい後の事だったでしょうか。胸の強い圧迫感と、吐くことも、吸う事も出来ないような息苦しさで、気がついた鉄三郎さんが見たものは、自分の身体の上に跨り、覆いかぶさるようにして顔を覗いている、どんぐり眼の大きな目でした。その後、記憶に残っているのは、腸(はらわた)のひっくり返るような猛烈な吐き気と、息がつげないほどの激しい咳き込みをしている最中、頭の中に聞こえてきた「気がついた?もう二度と、あんな無茶したらあかんよ。」と言う声と、そして何者かが、どこかへ立ち去っていった気配でした。繰り返しこみ上げてくる猛烈な咳き込みと吐き気に連れて、次第に取り戻してきた意識で、鉄三郎さんが見たものは、生い茂った草の茂みの中に寝かされている自分の姿でした。鉄三郎さんはいつのまにか、川の近くの草原に寝かされていたようでした。近くには誰の姿も見えませんでした。ただやや強い魚の臭いが、鉄三郎さんの身体に残されているのを感じただけでした。やがて心配して戻ってきてくれた友達に聞いても、何も気付かず、何も見かけなかったといいます。
結局助けてくれたのは何者だったか分かりませんでした。しかし鉄三郎さんはあれこそ、噂に聞いていた河童に違いないと信じておりました。従って、天王祭りになると、野菜の動物を作って供え、きゅうりを川に流してやる事を忘れませんでしたし、お酒を飲んでいい気持ちになったときには何時も、その話を持ち出してきたものでした。鉄三郎さんの考えでは、河童が、人の精気を吸い取るというのは誤解で、河童が、溺水者(できすいしゃ)に口移し呼吸をしている姿が、間違えて伝えられたのではないだろうかというものでした。

 

その6

明治維新によって始まった文明の波は昭和の初期にもなりますと、このような辺鄙な小さな部落にまで押し寄せてまいりました。父親が物心つくようになったころには、長良川にも大きな橋がかかり、国道ができ、バスが通り、あんなに苦労して行っていた墨俣の町も、ほんの数分で行き来できるようになりました。それと共に、あの牧歌的な考えや、伝えられてきた河童伝説や、いろいろな民話も、迷信や戯言(たわごと)として簡単に片付けられ、人の口に上る事も、殆どなくなってしまいました。
そんなある日、父の実家では、鉄三郎さんはもうとっくに亡くなり、後を継いでいた祖父にも男の子が生まれ、一家あげて、お祝いムードに包まれていた時のことでした。あの河童の住んでいるといわれていた淵が、発破で爆破されるという事件がおきました。何処かの男が火薬の爆発を利用して一挙に魚を獲ろうと目論んだのです。
〔註:昭和の初期には、ダイナマイトのような火薬を水中で爆発させ、魚を獲る漁をする人が時々いたそうです。なおこの漁方は、法律で禁止されていたそうです〕
爆破によって生じた水圧に圧迫された淵の魚達は、大きなものも小さなものも、根こそぎ、死ぬか、一時的な仮死状態に陥り、白い腹を見せて、ぷかぷかと川面に浮き上がってきてしまいました。それを、淵のすぐ川下の浅瀬に待っていたもう一人の土方風の男が掬い上げて、もって帰ったという話です。この発破によって浮かび上がってきたのは、大きな魚だけでなく、小さな魚も含めてその淵に住んでいた生き物全てでしたが、男達は、大きくて商品価値のある魚以外は見向きもせず、小さな魚はその時川原で遊んでいた子供たちに、好きにまかせ、後は棄てて行ってしまったといいます。
その時、魚を獲るのに加わった子供たちの話では、その際、河童らしい生き物の姿は見かけなかったと言います。祖父などのような昔型の村人達は、「可哀想に、あの発破で、河童は住んでいた洞穴の入り口を塞がれ、死んでしまったに違いない。中に閉じ込められたまま、死んでいった河童は、さぞ苦しかっただろう。悔しかったろうなー。本当に悪い奴がいるもんだなー。大体、発破は法律で、禁止されている筈なのに。」と憤慨していたそうです。

 

その7

この時期を境に、この村で、河童の話はすっかり聞かなくなりました。人々の心の中の河童も死んでしまったようです。そして河童の死と時を同じくするように、のどかで牧歌的だった村の自然も、住んでいる人々の優しさも、死んでしまいました。更に戦争それに引き続いての終戦によって幕を開けた大量生産、大量消費の時代は、あんなにも澄んで、美しかった川の水を汚濁させ、川原には粗大ごみを散乱させ、優しくて親切だった人の心には、欲望を膨らませ、嫉みとずるさ、憎みあいの子鬼を住み着かせるようになってしまいました。文明は、日本の津々浦々に至るまで、便利さという恩恵をもたらしてくれましたが、それによって失っていったものも大きいようです。人の欲望には限りがありません。これ以上の欲望の充足、便利さを求め続ける結果がもたらすものは、地球資源の食い散らかしと、人の心の荒廃だけのような気がいたします。もうそろそろ、人は現状に満足し、便利さばかり追い求めるのを止める時期が来ているのではないでしょうか。そうしなければ人類の未来に待っているのは破滅のような気がしてなりません。