No.65 おばあちゃんの話(納涼民話)、その2 雪女

この話はフィクションで、実在の人物・事件とは関係ありません。

 

最初に

もうすぐ盆休みに入り、日本中で西に東に、外国にと民族的大移動が始まります。こんな時期は気忙しく、なかなか難しい文章を読む気にはなれないかと思います。ですので今回は納涼プレゼントとして、軽い読み物を提供させていただきます。このお話によって、皆さんのこの夏が少しでもしのぎやすくなっていただけることを願っております。
最近では地球温暖化の影響を受けてか、父の実家、つまり私のお祖母ちゃんの家の方も、雪がめっきり少なくなってしまいました。そのため、今の子供たちは、雪女のお話などあまり怖がらなくなってしまい、雪女のお話を子供たちに聞かせてくれるお年寄りもほとんど居なくなってしまいました。
昔はこの地方も伊吹山の関係でとても雪が多く、1メートル以上の雪が積もることも珍しくなかったそうです。そのため、冬にお祖母ちゃんの家に行きますと、雪女のお話をよく聞かされたものでした。とくに、雪の降ってくる前触れである伊吹下ろしの風が、ヒョー、オーオーと泣くような音をあげながら、がたがた、がたがたとガラス窓を揺らし、軒先を吹き抜けていく晩などは、必ずといっていいほど雪女のお話が出てきたものでした。
外泊に心が弾み、興奮して、なかなか寝付けない私達を捕まえてのそのお話は、自然が奏でる音響効果も抜群で、何度聞いても恐ろしく、そして物悲しく、お祖母ちゃんにしがみつきながら聞き入ったものでした。お祖母ちゃんの話してくれたそのお話が、もともとこの地方に伝わっていたものであったのか、お祖母ちゃんが創作したものであったのか、お祖母ちゃんが亡くなってしまった今では知る術もありませんが、それは現在、私たちが知っております雪女のお話とは随分違ったものでした。
時々遊びにいっていたお隣のお婆さんからも、似たような、それでいて少し違っているお話を聞いたことがあります。もしかすると雪女のお話は、地方によっていろいろなお話があるのではないかという気がしてます。以下祖母の話ですが、方言には解りにくいところがありますので、そういった部分は直し、また会話は臨場感を持たせるたように多少修飾してます。

 

その1

昔、この辺りの土手のすぐ下のところに、小さな家がありました。そこには、吉兵衛さんという人が住んでいたそうです。吉さんは、その頃は30歳近くになっていましたが、なにしろ貧乏で、その日暮し、そのうえ年とった病気がちのお母さんの面倒も看ていましたからなかなか縁談がまとまらす、まだ独りでいました。そうでなくても、条件的に結婚は難しいのに、吉さん自身も結婚相手に対する理想が高く、なかなか「うん」と言いません。それに吉さんは、近所の人達から、多少変わり者と思われていましたから、あまり縁談の話がきません。こういった理由が重なって、30歳近くになってもまだ独りでいました。
その頃、この辺りの土手は、今よりずっと背が低く、少し大雨が降っただけでもすぐに堤防が切れたり、水が堤防を越えて、こっち側に流れ込んできたりしました。だから、家も田んぼも、絶えず水につかっていたものでした。吉さんのところのおとうさんは、吉さんがまだ幼かった時に死んでしまい、母親の手ひとつで育てられました。
お父さんが亡くなった時、借りていた田んぼは、そのほとんどを女手一つで耕すのは無理だろうということで地主さんから取り上げられてしまいました。吉さんの子供の頃はほんの少ししか貸してもらえません。そのため、親子二人、食べていくのも苦しいといったくらいに、大変に貧乏でした。こうしたこともあって、吉さんは、まだ10歳にもならないうちから日雇になって、あちらこちらへ働きに出ていました。
しかし吉さんは、とっても気の優しい、信心深い子でした。どんなに貧乏でも、ひがんだり、くよくよしたりすることもなく、むろん悪事に加担するようなこともせず、何事も阿弥陀様の御心と、いつも仏様に感謝しながら明るく、正しく生きていました。また、困った人を見ると黙っておれないたちで、自分の食べる物を少しくらい削ってでも恵んでやっていました。さらに、どんな生き物の命でもとても大切にし、道を歩いている時など、蟻でさえも踏み潰さないように気をつけて歩いていたほどでした。ですから子供が蛙や亀などをいじめているのを見たりしますと、可哀想で我慢できなくなってしまい、たとえ自分の身に着けている物を剥いででも、助けてやっていました。
村の衆は、そんな吉さんの良さが分かりませんでした。自分の、その日その日の食べる物にさえ困るほどなのに、そんな馬鹿なことをしているのを、蔑んで、ぼろを着た吉という意味と、頭の中がぼろぼろという意味をかけて「ぼろ吉」とあだ名をつけていました。
ところが、冬になると毎年やってくる雪女だけは違っていました。雪女が最初に吉さんを見かけたのは、吉さんがまだ赤ん坊の時でした。風に乗って窓辺を通り過ぎながら見た吉さんは、まるまるしてとても可愛いく「まあ可愛い」と思わず見とれてしまったほどでした。それから後は、里に下りてくる度に吉さんの家を覗き、吉さんが大きくなっていくのを見るのをとても楽しみにして、なんとなく吉さんに肩入れするようになっていました。父親を亡くし、母親と二人で苦労している姿を見たときなどは、可哀想で胸が潰れそうになったほどでした。
雪女が見るところ、吉さんは普通以上の子でした。ただあまりにも心が美しいので、他の人から受け入れてもらえないだけのようにみえました。貧乏で、皆から馬鹿にされても、決して怒りません。身体は大きく頑丈なのに、他の子に仕返ししたり、いじめたり、意地悪したりするようなこともしない、大変に気の優しい心美しい子供です。頭も決して悪くありません。ただ家が貧しく、いつもぼろぼろの格好をしていることや、何事もじっくり考えてから始めるので、のろまにみえること、いつもニコニコしていること、人の噂や周りの思惑をあまり気にしないで行動するといったことのために、皆から誤解され、馬鹿にされているだけのように思われました。だから吉さんの育っていく姿をずっと見ているうちに、いつの間にか、吉さんびいきになってしまい、他の子供から馬鹿にされたりするのを見たりしますと、自分のことのように悔しがるようになっていました。
こうして毎年、冬になると里に下りてきては、吉さんを覗き見るという生活を繰り返しているうちに、あっという間に年月は流れ、吉さんも立派な大人になりました。背の高い、頑丈な体つきの、見るからに優しそうな、好青年になってきました。眉の濃く、堀の深いその顔立ちは、それまでの苦労や、吉さんの深い人間性を物語るかのように味があります。
今では雪女は、吉さんの黒い瞳が自分の方を見ているのを感じるだけで、胸がどきどきするようになっていました。吉さんの低く優しい声が聞こえてくると、それが遠くであっても、身体が震えてきて、全身の力が抜けてしまうようです。吉さんになら、自分の全てを預けても悔いがないと思えるほどの気持ちになっていました。雪女は吉さんに恋をしてしまったのです。いまや吉さんの全てが好ましく思われました。離れがたいほどに恋しく思われました。子供の時から吉さんを見詰め続けるうちに、最初に感じていた「愛しい」という感情が、いつの間にか狂おしいほどの「愛してる」に変わっていってしまったのです。それは雪女にとって、タブーだったのですが。

 

その2

雪女は、伊吹山の頂上辺りに住んでいて、夏はそこに残っている雪の中にいて、時々細かい雪を降らします。冬には、天の神様のお言いつけに従って、風に乗って里の方に下りていき村や町に雪を降らせます。また、雪の中で凍えている人間や、寒い夜にいつまでも起きて騒いでいる子供達から魂を抜きとるという仕事をしております。
雪女は色の白い、とても綺麗な女で、年のころは二十歳前後に見えます。瓜実顔に、長いさらさらの黒髪、きれ長な目、真っ黒な瞳、深紅の唇をもったその顔立ちは、言葉で表現できないほど魅力的です。このため、その瞳に見つめられながら白い腕に抱きしめられ、甘い薫りの息を吹きかけられますと、魂を抜きとられているのにもかかわらず、誰もが、とても良い気持になってしまいます。それは好きな人に抱かれている時のような、あるいは赤ちゃんの時、お母さんの腕の中に抱かれている時のような、うっとりした、安らかな気分です。そのため、雪女に命を取られた人は、誰も雪女のことを恨んでいる様子がないそうです。皆、安らかな顔をして、微笑んで死んでいると聞いています。
しかし雪女のほうは、子供たちや、親、お嫁さんなどから、その人を奪い取って、魂を天に送らねばならない仕事ですから、時にはとても辛いと思う時がありました。その上、雪女は気がついた時からもう一人ぼっちでした。他の人間達のように親も、兄弟も、誰もそばにいませんでした。ですから、いつも寂びしい思いをしておりました。そこで里に下りてきた時は「さびしいーよー、さびしいーよー」と泣きながら軒先を通り過ぎていくのだそうです。
通りすがりに覗く家々は、どこも暖かそうな火が燃やされ、その周りに人が集まり、賑やかで、楽しそうにしています。それを見ますと余計に悲しくなり「羨ましいよー、寂しいよー、誰かと一緒にいたいよー、一緒にいてくれる子供はいないかなー」と言って泣くのだそうです。
雪の降る前の晩、ヒュー、ヒューと泣くような音を立てて通り過ぎていく風の音、あれは雪女が泣いている声なのだよ。もしそんな時に、子供が遅くまで騒いでいたりして雪女に見つかったりすると、連れていかれてしまうかもしれないからね。連れて行かれたら最後、寒い寒い雪の中で凍え死ぬよりほかはないんだから。雪女は可愛いからと思って連れて行くだけかもしれないけど、連れて行かれるほうは災難だよね。「早くお布団の中に入りなさい」とお祖母ちゃんがいつも言っているのは、このためだからね。まあ、あんた達のうちで雪女に連れて行かれても平気だと思っている子がいたら、話は別だけどね。

 

その3

ある日の事でした。その日は、前日の夜半から降り出した雪で、吉さんの村も夜明け頃には雪が子供の背丈を越すくらいにまで積もっていました。ところがその日、地主さんの娘さんの嫁ぎ先が「急に人手が要るようになったので、男衆を二人ほど貸してほしい」と頼んできました。娘さんの嫁ぎ先からの頼みですから、地主さんとしては断るわけにはまいりません。やむを得ず、すぐ隣に住んでいた吉さんと、もう一人の小作人に「これこれこういう理由だから、隣村まで行ってもらえないだろうか」と頼みました。もう一人の小作人は「こんな大雪の中を……」と少し躊躇していましたが、地主さんからのたっての頼みでは断ることもできず、最後は日当をはずんでもらう約束でしぶしぶ引き受けました。
吉兵衛さんのほうは「きっと困っていらっしゃるのでしょうから、ぜひ行かせていただきたいのですが、ただ、うちには床に伏せっている母がいまして、この雪の中、一人でおいて出かけるわけにまいりません。もし私が帰ってくるまで母の面倒を看ていていただけるのでしたら、喜んで行かせていただきますが」と答えました。無論地主さんに「否や」はありません。こうして吉さん達二人は、隣村へと出かけていきました。

 

その4

娘さんの嫁ぎ先の仕事は思いのほか時間がかかり、仕事が終わった時はもう夜で、辺りは真っ暗になっていました。その家の人達は「こんなに夜も遅くなり、雪もこんなに降っていますから、今夜は泊まって行かれては」と盛んに勧めてくれます。それを聞いたもう一人のほうの小作人は「それでは」と言って、その晩は泊まっていくことにしましたが、吉兵衛さんの方は、お母さんが心配で、どうしても泊まっていく気になりませんでした。そこで「ご好意はありがたいのですが、母が心配ですからやはり帰らせていただきます」と言って、家の人々への挨拶もそこそこに、土産に頂いたご馳走を大事に抱えて帰路につきました。
家の外は、雪明りのために全体に薄ぼんやりと白くなっておりますが、昨日から絶え間なく降り続いる雪は、大人の胸までくるほども積もっていて歩くのも大変です。田も畑も、池も窪地も、みな雪の中に埋まってしまって、道との区別もつきません。帰り道の目安になるような物も、全く見当たりません。その上、途中からは風も強くなって、まるで吹雪のようになってきました。強く吹き付ける風と雪によって目を開けておれないほどです。視界が遮られて、ほんの少し先でさえ見え難いほどです。
吉さんは、もらってきたご馳走を、早くお母さんに食べさしてあげたいと一生懸命に歩きました。けれども、何しろ白一色しかない世界、どこをどう歩いているのかまったく見当がつきません。普段なら、もうとっくに着いてもいいくらいの距離を歩いているのですが、一向に自分の部落らしいものが見えてきません。川さえ見つかれば、それを伝って上流に歩いていきさえすれば良いのだからと思って、土手を探しましたが、全てが雪に降り込められてしまって、見渡す限りなだらかに起伏があるだけで、土手らしいものも見つかりません。土手も、雪の中に隠れてしまっていたのです。
あちらへ行き、こちらに来と、行ったり戻ったりしているうちに、帰り際にご馳走になった振舞い酒の酔いも手伝って、次第に眠くなってきてしまいました。それでもしばらくの間は頑張って歩いていたのですが、やがて我慢ができなくなり、とうとう雪の中に座りこんでしまいました。すると、朝早くから起こされて働いていた疲れと、雪の中を長い間歩き続けた疲労とが重なって、猛烈な眠気が襲ってきました。
その時でした。吉さんの前に、とても美しい女性が現れたのです。その女は、冷たい手で吉さんの頬を撫で、頭を軽く叩きながら「駄目。いま眠ったら駄目。いま眠れば死んでしまうのよ。お母さん一人残して、死んでもいいの」と悲痛な声をあげます。吉さんは夢現の中で「ああ、これが噂に聞いている雪女か。これで自分も、いよいよお陀仏か」と思いました。しかしそこにいる雪女があまりにも美しくかったものですから、心を奪われてしまい、残してある大切なお母さんのことも一瞬忘れてしまいました。そして「貴女になら、魂を差し上げてもかまいません。どうか自由に持って行ってください」と叫んでいました。
すると雪女は悲しそうな顔をして「駄目よ。そんな、死んだら絶対に駄目。いま死んだら貴方のお母さんはどうなるの。もう間もなく夜が明けますから、それまで眠らないように頑張りなさい。夜が明ければ、きっと助けがきてくれますからね。私も風除けになって守っているから」と言います。命を取っていくのが仕事だと聞いていた雪女が、どうして、そんなにまでして助けてくれようとするのか、訳が分かりませんでしたが、ともかく吉さんも歌を歌ったり、眠くなれば顔をつねったり、頭を叩いたりして、目をつぶらないようにと頑張りました。雪女も、風から守ってくれながら、吉さんが眠りそうになると呼びかけてくれたりして、眠らないように協力してくれました。
こうしているうちに、やがて東の空が少し白み始めました。すると雪女は「もうすぐ助けがやって来ますよ。私はもうこれで行きますから」と言いながら、だんだん薄くなって、風の中に消えていってしまいました。最後の消え際に「この春から夏の始めにかけて、この辺は二回の大水に襲われます。稲を植えるのは、その二回目の大水が終わってからにしなさい。いま貴方が借りている田は少し高い所にありますから、そこを全部苗床にしておきなさい。そして二回目の大水が終わるまでは、そのままにして待ち、二回目の洪水が終わってから植え始めなさい。その頃になると、植える苗がないので、遊ばせておくより仕方がない田が、あちこちにでてきます。その田を出来るだけ多く借りて、それらの田を作らせてもらいなさい。きっとそうするのですよ。それともう一つ、私のことは、誰にも、絶対に話してはいけません。もし人に話せば、貴方は、雪の粉になって消えていくことになりますからね」と言い残しました。

 

その5

吉さんの地主さんは、吉さんが朝になっても帰ってこないものですから心配になって、夜があけるのを待って、すぐ皆の衆と一緒に吉さんを探しに出かけました。吉さんの性格から考え、母親一人をほっておいて自分だけ泊まってくるなんて考えられなかったからです。
そうしましたら、間もなく、家からそう遠くない場所の雪の中に埋まって、半分眠っている吉さんを見つけだしました。すぐに家に連れ帰って手当てをした結果、顔色も良くなり、身体のほうもほぼ元に戻ったように思われましたが、吉さんはその後もしばらくの間、ぼーっとしたままでした。皆が何を聞いても、トンチンカンではっきりしません。そのため村の衆は、吉さんは雪女に魂を半分持っていかれてしまったのだと噂しました。しかし本当は雪女が、あまり美しかったものですから、雪女のことを忘れられす、その面影を追っていただけなのでした。白いマントを拡げて風から守ってくれながら、優しく、言葉をかけ続けてくれた雪女の面影が頭にこびりついて、離れなくなっていたのでした。
その年は雪が多い年でした。しかしそれは吉さんにとっては懐かしく、辛いことでした。雪が降ってくるたびに、雪女のことが思い出されて恋しくなります。このため仕事が手につかず、雪を見つめてはぼんやりしていることが多くなりました。そんな吉さんを見て、村の人達は、やはり雪女に魂を抜き取られてきたに違いないと噂していました。
その春は雪解けが遅く、遅霜があったりしてやや遅れてきました。春を待ちかねていた村の衆は、一斉に苗床を準備し、初夏の声を聞く頃にはもう皆田植えを終わっていました。吉さんも苗床を造り始めたのですが、雪女に言われたとおり、借りていた田んぼ全部に、ありったけの種籾を蒔いてとても大きな苗床にしました。皆は驚いて、これはいよいよ本当に気が狂ったか、阿呆になったに違いないと思いました。
地主さんが心配して様子を見に来てくれましたが、話し振りからみても特に変わったところもありませんでした。そのような大きな苗床を作った理由を聞いてみましも、笑って答えてくれません。「今に役立つような気がするものですから」と言うだけでした。地主さんは心配でしたが、そのまま様子をみることにしました。
やがて皆が田植え終わってしまっても、吉さんは高い場所にある畑の手入れをしているだけで、肝心の田植えはしようともしません。「ああ、かわいそうにな、あの若さで。もうこれであそこの家も終わりだな」と皆が噂をしていましたら、その後間もなくあたり一面が泥水の中に沈んでしまうような大洪水がやってきました。せっかく植えた稲の苗は、泥水をかぶって流されるか、枯れるかして駄目になってしまったのです。
お百姓さん達は水が引くのを待って田を整備し、こんなこともあろうかと残しておいた予備の苗を使ってもう一度、植え直しました。ところが洪水はそれで終わりませんでした。それからまもなくまた大洪水がやってきました。雪解け水を含んだその水は、田も畑もどっぷり水の中に埋没させてしまい、せっかく植えてあった稲の苗を全て駄目にしてしまいました。
お百姓さん達は、今度はもう植える苗がありません。そうかといってこれから種を蒔いていたのでは、秋に間に合いません。多くのお百姓さんたちはもう諦めて、そのままにしておくか、蕎麦でも作るより仕方がありませんでした。こうして今年の稲作りを諦めた田があちらこちらに見られるようになった時、吉さんは空いている田を地主さんに借り歩きました。そしてそこに、あるだけの苗を植えたのでした。
その年は日柄もよく、大水が運んでくれた肥えた土のおかげで、とてもよいお米がとれました。吉さんのところでは、年貢を払ってもまだ沢山のお金が残りました。吉さんはそのお金に地主さんから借りたお金を足して、今年米が取れなくて困っていた人達から、あちこちの田を買いとりました。こうして吉さんは小さいながらも自分の田を持つ、自作農家になったのでした。その上、隣の地主さんから、その年の年貢が払えなくて地主さんの所に返してきた田も作らせてもらえるようになりましたから、次の年からは、沢山の田を耕せる身分になることができました。

 

その6

雪女の方も、あれから吉さんのことが気になって、恋しくて、仕方がなくなっていました。春になってもう里に降りる必要がなくなった時、雪女は我慢ができなくなって神様にお願いしました。「どうか私をもうお役御免にしてください。私を少しの間でもいいですから、他の人間達のように好きな人の傍で賑やかに楽しく暮らしたいと思います。どうかお願いですから、私を人間にして里で暮らせるようにしてください」と。
すると神様は「そうか、それほどいうのならお前の願いどおり人間世界へ戻してやろう。しかし、お前が好きになった男がお前と一緒になった後、もし他の女に少しでも気を移すようなことがあれば、お前ら雪女は露になって消えてしまわねばならないことになっているが、それでもよいのか。そしてもう一つ、雪女だった女は子供を永久に望めないことになっているが、それも承知か」とお尋ねになりました。すると雪女は「吉さんのそばに、ほんの少しの間でも居ることができるのであれば、もうそれ以上何も望みません」と答えました。

 

その7

その年の晦日もいよいよ明日という日のことでした。その日も前の晩からの雪で、何もかもが雪に埋まり、辺りはすべて白一色に染まっていました。
その朝、吉さんのお母さんが手水場にいくため外に出た時(当時は便所のことを手水場といっていました。また、ほとんどの家の便所は家の外にあったものでした)家の軒下に一人の女が倒れているのを見つけました。年の頃は二十歳そこそこ、ぼろぼろの着物をつけ、やせこけ、垢と埃と雪焼けで斑に赤黒くなった顔をしたその女は、髪もぼさぼさで、見るからにみすぼらしく汚らしい女でした。驚いて吉さんを呼ぶお母さんの声に、あわてて起きてきた吉さんは、その女から臭ってくるすえたような臭いも、垢に薄汚れた襤褸屑のような着物も気にかけることなく、その女を両手で抱え上げると家の中に運び込み、手厚い手当てを施してやりました。その時その女は、飢えと寒さとのために半分意識がなくなっていましたが、吉さんの親身の手当によって間もなく元気を取り戻すことができました。
吉さんは恥ずかしがって遠慮する女に、お風呂に入るよう勧め、女が風呂に入っている間に部屋を暖め、暖かい食事の準備をし、着替えとして母親の新しい着物を出しておいてやりました。ちょうどいい具合にその年は、空いていた田を余分に借りて作らしてもらった上に大豊作でしたから、吉さんのところも人並みの余裕もできておりました。
お風呂から上がった女を見て、吉さんも、お母さんも驚きました。垢を落とし、髪を梳かして出てきた女は、少しやせて雪焼けした顔がところどころ斑に赤くはなっていますが、とても気品のある美しい顔立ちをしております。赤々と燃える囲炉裏の火に映し出される顔は、はっきりとは思い出せないのですが、どこかで一度、会ったことがあるような、記憶の底にある懐かしい顔でした。

 

その8

吉さん親子が女に食事を勧めながら事情を聞いてみますと、その女は次のように語ってくれました。
「名前はゆきと言い、彦根城下の生まれです。両親は彦根で商いをしておりましたが昨年、その地方にひろがった流行り病のために相次いで亡くなってしまい、彼女一人が残されました。ほかに兄弟はなく一人ぼっちです。そこで家屋敷を整理し、遠い親戚を頼って旅に出たのですが、大垣までやって来た時に不注意から、ゴマのハエにお金を全部盗られてしまいました。それ以降は食べることもできず、泊まることもできず、水ばかり飲みながらここまでやってきました。ここに着きましたら、もうどうにも力が出なくなり足が動かなくなってしまったのです。
本当はご迷惑をお掛けしないように、どこかお宮様か、お寺の軒先でもお借りしたいと思っていたのですが、もう一歩も動けなくなってしまい、お宅様にはご迷惑をかけることになってしまいました。本当に申し訳ありません。少し元気が出ましたら、なるべく早く出立させていただく心算でございますから、もう少しだけ、ここで休ませていただけませんでしょうか」とのことでした。
むろん親切な吉さん達のこと「どうぞ、どうぞ、貴方が気のすむまで、いつまでも気兼ねすることなく休んでいってください。まず、お疲れでしょうから、今日はお休みになったら……」と言ってお布団を敷いてくれ「話は後で聞きますから、今はまずお休みなさい」と言いながら、その女、ゆき一人をおいて二人は外に出ていきました。
ゆきが次に目を覚ました時は、もうその日の夜になっていました。食事の準備をしている音と夕餉の匂いに目を覚ました時、部屋の中はもう真っ暗になっていました。お勝手からは吉さん親子の話し声が、囲炉裏の火のぱちぱちはぜる音と食器を並べる音に混じって聞こえてきます。あわてて起き上がったゆきが囲炉裏かまちのところに下りていきますと、そこには吉さん親子の笑顔が待っておりました。「よくお休みでしたね、よほどお疲れだったのでしょう。どうですか、少しは元気になられましたか」とお母さんが聞きます。「おかげさまで元気になりました。明日は出発できると思います」とゆきが答えると、吉さんが「それで、どこまでお行きになるのですか。母とも相談していたのですが、あまり遠くないようでしたら、そこまで私がお送りさせてもらってもよいのですが」と申し出てくれます。「もう少し先の三河まで、まいるつもりです。ただ訪ねていく先がまだ一度もお会いしたことのない方のところでございますから、実際訪ねていって、受け入れていただけるかどうか分かりません。なので、かえってご迷惑をかけることになるかもしれませんから、私一人でまいります」とゆきは言います。
それを聞くと、吉さんは「それなら別に慌てる旅でもなさそうですし、春になるまでここでゆっくりしていかれたらどうでしょう。そうしているうちに身体もきちんと回復してくることでしょうし、春になって行き来の人が増えれば、伝を頼ってあちらの様子を探ることもできますから」と勧めます。吉さんは、彼の本来持っている親切心からそう言っていたのですが、心の底には、ゆきがなんだか懐かしく、離したくないという気持ちがあり、それが言わせているところもありました。それに対してゆきは「本当にお言葉に甘えさせていただいて、よろしいのでしょうか。お金もなくなってしまいましたし、この天候ですし、どうしたものかと悩んでいたところです。ご親切、本当にありがとうございます。このご恩は忘れません。泊めていただけるのでしたら、代わりにお家のことをなんでもさせていただきます。ほんとうにありがとうございます」と、吉さんからの言葉を待っていたかのような返事が返ってきました。
こうしてゆきは、しばらく吉さんのところで世話になることになりました。ゆきは働き者でした。朝の暗いうちから、夜も暗くなるまで一日中働き続けます。その上とても気の利く、心優しい女性で、お母さんの面倒もしっかり看てくれます。それまで男手一つで至らなかった母親の看病も、痒いところに手が届くように行き届くようになりました。
そうして春を迎えた頃には、ゆきは吉さんのところになくてはならない存在になっていて、もう三河の親戚のところに行く話も出なくなっていました。二人はどちらも相手のことを好き合っているようにみえました。
二人は何をするのも一緒でした。吉さんが農作業をしている時は、陰のようにゆきが付き添っていますし、ゆきが家の中の仕事をしているときは、吉さんがそばで手伝っています。吉さんが夜なべをしているときは、その傍らでゆきが針仕事をし、ゆきが遅くまで片付け物をしているときは、吉さんが農機具を手入れしながら終わるまで待っています。寝る時間も、起きる時間も二人は一緒でした。二人は離れておれないくらいに、互いを好きあうようになってしまっていたのです。
春を待って二人は結婚しました。招かれてやってきた近所の人は、ゆきのあまりの美しさに仰天しました。女も男も、いろいろ陰口を叩きました。なかには、あまりの美しさに、あれは物の怪に違いない、などという人もいたほどでした。子供たちの中には、ゆきには陰がないかもしれないと、陰を追って歩いた子もいたほどでした。しかし、なにごともなく普通に暮らす二人を見ているうちに、やがてそんな噂も消えうせ、近所付き合いにも気を使うゆきに、近所のおかみさん達からは、とてもよく出来た嫁として認められるようになっていきました。
男達もゆきを認めていないわけではなかったのですが、何しろあまりに美しいものですから、吉さんのことが羨ましく、焼餅半分に、何かと噂の種にしているだけでした。特にゆきと結婚してからの吉さんは、とんとん拍子にお金持ちになっていきましたから、余計に羨ましく、「やはりあの女は怪しい。あれは人間ではないにちがいない。そのうち見ていろ、吉さんのところにはとんでもないことが起こって泣くことになるから」とか「あれは石女に違いない。だからちっとも子供が出来ないのだ。見かけは綺麗でも、抱くと石のように冷たく、つまらん女だそうな」とか「いやいや、あれは九尾の狐だそうな。夜になると障子に尻尾の陰が映っているそうだ」などなど、皆面白半分に勝手な噂話をしておりました。

 

その9

二人は仲が良いのですが、どうしたわけか子供ができませんでした。もう結婚して10年以上経ちましたが、いっこうに子供ができる気配がありません。吉さんはとても子供好きでした。自分の子供を一刻も早く欲しいといつも思うようになっていました。吉さんはゆきには直接言いませんでしたが、そんな気配は夫婦ですから、言葉に出さなくてもすぐに伝わってしまいます。
ゆきは、子供のできない原因を知っているだけに辛く、申し訳なく思いました。ゆきはそれを償うかのように、一層吉さんに尽くすのですが、吉さんの寂しさが紛れることはありませんでした。家にお金が溜まってくるにつれ、一層、跡継ぎとしての子供を欲しがるようになっていました。近所の子供が遊んでいる姿を見つめる吉さんの様子をみかねたゆきが、親戚の子供をもらったらどうかと勧めたこともありましたが、吉さんは「好きなゆきとの間の子供だからほしいのであって、それ以外の子なら欲しくない」といって聞き入れませんでした。

 

その10

年月は夢のように流れ、吉さんも、もう間もなく50の声を聞くという歳になりました。
吉さんの家は益々お金が溜まり、今ではその里の大地主になっていました。ゆきは相変わらず美しく、魅力的で、今でも周りの男達の垂涎の的でした。夫婦仲も変わらず良く、二人はいつも一緒でした。二人が語り合っているときは、その伝わってくる甘い雰囲気に、他から口をさしはさめないようなところがあるほどでした。
しかし子供だけは出来ませんでした。そうなりますと周りが黙っていません。跡取りをどうするかということで、盛んにお節介をしてきます。毎日責められているうちに、吉さんも跡取りのことを本気で考えるようになりました。といっても、よその子供をもらうか、お妾さんをとるより方法がありません。こうして考えていたとき、隣村からお妾さんにきてもよいという娘さんのお話がやってきました。歳は21歳。色白の、すらっとした美しい娘さんとのことでした。母親が長患いで、お金がかかって困っているから、妾奉公にだしてもよいというお話でした。
最初は渋っていた吉さんでしたが、やはり男です。若くて綺麗な女という話に気が動いたようで、一度会ってみたいと言い出しました。

 

その11

その娘さんは話のとおり、色白のほっそりした、とても可愛い女性でした。美しいというより、可憐というのがぴったりな女性です。歳の割に初心な感じで、話し方も甘ったるいところがあって、子供っぽく、なんとなく頼りなげでした。ぎゅっと抱きしめると露になって消えてしまいそうな、そんな儚さがありました。男から見たとき、ほっておけないという思いを抱かせるような、そんな女でした。
よく見るとその面影には、ゆきの若いときと同じ雪女の面影が感じられました。吉さんは一目で気に入って、さっそくお妾になってもらいました。お妾さんというのはその頃でも本妻さんとのトラブルを避けるために、別のところに屋敷を作り、そこに住まわせるのが普通でしたが、吉さんはそういう方面にはとんと疎いものですから、自分の屋敷の中に家を作って、そこに住まわせる心算でした。
自分が愛しているのはゆきだけで、妾をもらうのは子供を作る為の方便だと言う、表向きの言い訳を準備して自分の心を欺き、割り切った心算でいる吉さんは、ゆきに悪いという気持ちなど全くありませんでした。ゆきも喜んでくれるに違いないとさえ思ったほどでした。なので、妾を決めて家に帰ってきた吉さんは、無神経にもさっそくその話をしてしまいました。子供がどうしても欲しいから妾を持つことに決めた。子供が出来るまでの辛抱だから、しばらくの間、目をつむっていてくれというものでした。そして今日会ってきた女の印象まで楽しそうに話しました。吉さんはそれによって、愛しているのはゆきだけだから、たとえ妾をもったとしても心配しなくてもよいということを伝えようとしたのでした。
しかしゆきの受け止めは違っていました。ゆきは、ここに来るにあたっての神様との約束で、吉さんが他の女に心を移したときは消えていかねばならない運命になっているのです。ゆきは目一杯に溢れ出そうな涙をためながら、吉さんの話をただ黙って聞いていました。ゆきには女の直感で、吉さんの心がすでに少なからず、その女の方に移っているのを感じていました。彼女は自分の運命を悟ったのでした。
その時でした。吉さんの口から思いもかけない言葉が飛び出してきたのです。「本当はね、今度の話も最初は断ろうと思っていたのです。ところが会ってみたら、お前の若いときの雰囲気を持った女で、この女となら一緒に子供を作ってもよいと思えるようになってしまったのです。本当のことを言いますと、もうあれも大分昔のことになってしまったから言えることですが、昔、私はとても憧れていた女がいたのです。それは、私が貴女と結婚した年の、前の年のことでしたが、隣村からの帰り道に雪の中で迷って危うく死ぬところだったことがあったのです。そのとき私を助けてくれたのが、これは絶対人に言っていけないことになっている話ですが、それが実は雪女だったのです。その雪女の印象があまりに強烈だったものですから、その後も忘れられなくなってしまったのです。
その雪女はほんとに貴女によく似ているのですよ。最初に、貴女が風呂から上がってきた姿を見たときは、まだはっきりとは気付きませんでしたが、その時でもとても懐かしい気はしました。運命の人に出会えたような感じでした。だからその時から貴女のことを好きで好きでたまらなくなってしまったのです。そして一緒に暮らすようになってはっきり気付いたのですが、貴女はあの雪女に瓜二つのように似ているのです。
しかし、もう昔の話ですから怒らないで聞いてほしいのです。あの雪女のことが忘れられなくて、いつの間にか影を追っかけている自分に気づくことがあるのです。そんな夢か現かわからないような女に、いつまでも想いを抱き続けるなんて、おかしいと思うでしょう。自分でもそう思う時があるくらいですから。今度の女も、どことなくその雪女に面影が似ているところがあるのです」と言いました。
吉兵衛は、その頃の男性の持っていた一般的な考えから、妾を持つことが特別悪いこととは思っていませんでした。その上、妾は便宜的なものに過ぎず、ほんとに愛しているのはゆきだけだという言い訳が出来上がっていますから、全く悪びれていませんでした。悲しそうに、目に涙を一杯に溜めているゆきを見ても「やはりゆきも女なのだな。話さないほうがよかったかもしれない。それほど嫌がるのなら家の外に囲うことにしようか」などと思った程度でした。

 

その12

ゆきにとっては、この雪女という言葉だけは、吉さんの口から絶対に聞きたくない言葉でした。ゆきは自分が消えていかねばならないだけでなく、自分の愛している吉さんも、雪の粉にする呪いをかけなければならない立場に立たされたのでした。
雪女は、もう吉さんには何も言いませんでした。ただ悲しそうな目をして、黙って立ち上がると、家の中を片付け始めました。自分がいなくなった後も吉さんが困らないようにと、こまごまとしたものまでいろいろ取り揃え、それらがどこに置いてあるのか分かるように、一覧表をつくりました。それと同時に、吉さんに買ってもらった着物や宝石類はきちんと揃えて箪笥の引き出しの中に入れました。また、その時まで任されていた帳簿類の整理もきちんと終わらせておきました。
何も知らない吉さんは、突然黙ったまま仕事を始めるいつもと違うゆきの態度を見て「あんたがそんなに嫌なら、あの話をやめてもよいのだよ」と機嫌をとるように言ってくれましたが、もう万事手遅れでした。神様との約束は厳しいものです。ゆきには明日の朝までに露と消える、そして吉兵衛には、次の初めての雪の晩に雪の粉になる、そんな定めしか待っていないのです。それは泣いても笑っても、嘆願しても、変えようがない神様との約束事であり、雪女であったゆきの勤めでもあったからです。吉さんのこの言葉にも、ゆきは寂しそうな笑顔を向けただけでした。
ゆきはもうあきらめきったように、黙々と自分の仕事をこなしていきました。最後の一つだけを残して。その最後の一つとは、やりたくない仕事でしたから後延ばしにしました。できれば、しなくて逃げ出したいとも思いました。しかし自分がしなくても、神様がだれかにそれをさせるに決まっています。そしてその時は、神様の余計なお怒りを受けることになりますから、吉兵衛に余分の苦しみと悲しみ与えることになります。ですからどうしても自分がしていかねばならないと覚悟を決めていました。

 

その13

その夜も、二人は同じ時間に布団に入りました。しかしゆきはいつものように眠りにつくことはしませんでした。吉兵衛が寝静まるのを待って、そっと起き上がると、台所に立って翌日の朝食の準備をしました。それから、自分の一番好きだった着物を着て吉さんの枕元に座りました。そして、今までのお礼を口の中で呟きながら、いかにも愛しげに吉さんの頭をそっと撫でました。
しばらくの間、髪の毛に触りながら、離れ難そうに吉さんの顔を覗き込んでいたゆきは、やがてあきらめたように、立ち上がると、れいの呪い、つまり雪の粉に変えるという呪いを吉さんにかけました。何も知らずにすやすやと眠っている吉さんを見ていますと、二人で過ごしてきた幸せだった時のことが思い出されて、再び涙が止まらなくなりました。洩れてくる嗚咽の声を抑えるのに苦労しました。ひとしきり泣いていたゆきは、やがて自分の部屋に戻り、神様を呼びました。

 

その14

翌朝、目を覚ました吉さんは、いつものようにゆきの姿を目で探しましたが、ゆきはいませんでした。呼んでも何の返事もありません。いつもなら、もうとっくに起きていて自分を起こしに来てくれる時間なのに、見当たらないのです。昨日のゆきの態度から胸騒ぎがした吉さんは、あわてて家の中を探しましたが、どこにもいませんでした。外に出て行った形跡もありませんでした。几帳面に整理された帳簿類と、ゆきの貴重品、吉さんの日常使う物の置き場所の一覧表は、ゆきが再び姿を現すことのないことを物語っているように思われました。ゆきの部屋には、ぐっしょり濡れたゆきの一番に気に入っていた着物一式が、着ていたまま、抜け落ちたかのような姿で残されていました。それがゆきの実際にこの世に存在していたことを示す、唯で一の証でした。

 

その15

ゆきのいなくなった後、吉さんは惚けたようになってしまいました。あれほど勤勉だった吉さんでしたが、今では何もする気がなくなってしまい、毎日毎日、空を見上げながらぶつぶつ呟いているだけでした。人に会うことも避けるようになりました。妾の話も興味を無くし、お金を少し払って、それっきりにしてもらいました。身だしなみに気を使うこともなくなった吉さんは、何日も何日も着たきりすずめ、同じものを着けているために垢と汗とですえたような臭いが漂ってくるようになっていました。お風呂も入らず、髭もそらず、髪は伸び放題で蒼い顔をして、ぶつぶつ呟き、時々大声をだしながら屋敷の中を徘徊する吉さんの姿は異様でした。鬼気迫るものがありました。そんな吉さんの姿に気味悪さを感じるようになった使用人たちは、吉さんに見切りをつけ、次々と辞めていきました。
こうしてこの屋敷内に最後に残ったのは吉さん一人でした。手入れをする人のいなくなった家の中は、瞬く間に荒れ果て、屋根は傾き、建具は破れ、畳は腐り、壁もあちらこちら崩れ落ちてしまいました。家は、まるで廃屋です。庭の樹木も伸び放題となって屋敷を覆いつくし、家の中まで蔓草が侵入しています。家の中は昼間でも暗くじめじめしていました。誰も気味悪がってその屋敷に近寄ろうとしなくなりました。もうその屋敷内で見かけるのは、カラスと狐やむじなくらいとなってしまいました。塀越しに聞こえてくる、吉さんの足音と、悲痛な叫び声だけが、吉さんの生きていることを示していました。

 

その16

その年は雪が来るのが遅く、正月近くになって初めて雪が降りました。その雪は初めての雪であるにもかかわらず大雪で、小さな子供の背丈を越すくらいにまで積もりました。
その日、吉さんの家の前を通った人は、いつもの吉さんの叫び声が聞こえてこないことに気付きました。屋敷内は、それまでのことが嘘のように静まり返っていました。昨日までの吉さんの状態に、何の世話もしないで放っておいた近所の人々は(この人達のほとんどが吉さんのかつての小作人で、吉さんが元気だった頃は吉さん夫婦に、一方ならぬお世話になっていました)良心の呵責も手伝って、さっそく皆で吉さんの家を訪ねました。
しかし家の中に吉さんの姿は見あたりませんでした。雪の重みでつぶれそうになっている家の中、雪に埋もれた庭、どこを探しても吉さんの姿はありません。ただ吉さんが寝ていたと思われる辺りに、吉さんがいつも着ていた着物に包まれるようにして雪の塊が置かれてあり、時々吹き込んでくる強い風によってその雪が粉になって舞い上がっていくだけでした。
屋敷内のどこにも、吉さんが家の外に出て行ったことを示す形跡が残っていないことから、村の衆は、吉さんがゆきを慕って雪になり、天に昇っていったに違いないと噂しました。
吉さんの屋敷は、その後、雪女の屋敷と呼ばれて村の人々から気味悪がられました。誰も近寄らず、誰も住む人がないままに、その屋敷は次第に荒れていき、やがて雑草の生い茂る、広い広い荒地に変わってしまいました。そしてその屋敷跡は、大正末期の土手の改修工事によって河川敷の中に組み込まれ、今では川原になってしまっているということです。ほら、川原で遊んでいると時々、家の土台のような石が埋まっているのを見かけることがあるでしょう。あの中には、吉さんの家の土台だった物も入っているという話だよ。
ということで、お祖母ちゃんの話は終わりました。いかがでしたか。皆さんの知っている雪女のお話とは、ずいぶん違っていることでしょう。大人になって思い返してみれば、怖いというより、女の哀れさを強く感じさせてくれるお話だったような気がします。