No.49 懐かしい事は懐かしいけれど、向井潤吉風景画選集発刊に寄せて(後編)

ところで先刻お話しました、農村の闇ブームは、長くは続きませんでした。
戦後復興が進むにつれ、物不足は次第に解消されていき、食糧を買いに来てくれる人も次第に少なくなっていってしまったのです。そしてやがて、売ろうとしてもある程度の量とか質が確保されていないと、買い手がつかないとか、買い叩かれてしまうといった、苦難の時代が再び訪れてきたのです。そのため、お隣程度の土地しか耕作していない小規模のお百姓さんは,農業だけでは、食べていくのがやっとという時代に戻ってしまいました。ところが一旦膨らませてしまった生活水準は、そんなに急に縮ませるわけには参りません。その上、戦後の日常生活用品の発達は素晴らしいものがあり、新しい便利な品が、次々と生まれ、そして街にはあふれ出てまいったのです。ラジオ、テレビ、そして電気洗濯機と、人びとの欲しがる物がつぎつぎと出てまいりました。どの家も競うようにしてそれらの物を買い入れました。

それによって生活水準が上り、どの家も生活を楽しむ余裕もできて参りました。しかしその為に、格段にお金がかかるようにもなってしまったのです。そしてそれらの品々を買い揃えるために、どこの家も、働ける人手は町に働きに出るようになったのです。産業の復興に伴う人手不足は、彼らに働き口をいくらでも提供してくれましたが、これが、いっそうこの傾向に拍車をかけることになりました。しかしお隣の家では、ご夫婦共、もう老齢でしたし、働きにでられるような子供もいませんでした。従ってこの風潮に乗る事も出来ません。こうして頼りはあの闇ブームに蓄えたお金だけといった心細い生活しか(その頃は物価が年々上昇しましたから、貯金の価値がどんどん減っていった時代でした)待っていないように思われました。ところが、日本経済の復興は、闇ブームに続いて、都市近郊の農家の所に一大土地ブームをもたらしました。彼女のところも、例外ではなく、これに巻きこまれていきました。いろいろな理由によって、土地を手放していかざるを得なくなっていったのです。こうして彼女の家は耕地を失い、代わりにお金が通帳に又、貯まっていきました。その後まもなくご主人は亡くなられましたが、その時彼女は、一生贅沢しても余るほどの大金を持つ身分になっていました。私が遊びにいきだしたのはちょうどその頃、昭和45年~6年ころのことだったようですが、当時の彼女の生活は先ほども申しましたように、とても倹しい(つましい)ものでした。外見で見る限りでは、その人がそんなにお金をもっていらっしゃるとはとても思えないような生活でした。

祖父などが「あいつら、俺の家の土地をただ同然で手に入れておきやがって、それをすぐに売ってしまいやがるというのはどういう了見や?

それにしても急に金持ちになったとおもってチョット調子に乗っとらへんか?」などと苦々しげにこぼすのを聞いていましたから、彼女のところが結構お金を持っていらっしゃるという事は、幼いながらも知っていました。しかし彼女を見ている限りでは、そこらにいるどの人たちより、貧乏くさく、けちけちした生活をしていらっしゃったものですから、お金を持っていらっしゃると聞いても、ピンときませんでした。

彼女は「お金はなも、昔からお足といっとるように、チョット油断するとすぐに飛んでってまうもんだで、大切にしたらんといかんでなも」とか
「お金が出来ると、いろんな人がよってきんさるけど、だーれも信用したらあかん」「皆お金狙ってよっとんさるだけやでなも」
「お金がなくなってみんさい。手のひらかえしたみてぇーに、皆つめてーもんじゃでなも」とか何時も言って、誰もお寄せつけられませんでしたから、お金は持っていらっしゃっても、孤独でそれほど幸せそうにはみえませんでした。彼女、最後はお金だけが頼りと思っていらっしゃったようですから、財布の紐もきちんとしめていらっしゃったのだとおもいます。
先日30余年ぶりに、父の実家のあった所に行ってみました。昔は村だったその場所も、今は市と呼ばれるようになり、田や畑が一面に拡がっていた長閑な田園風景は、広い道路が縦横に走り、それに沿って、新建材を使った小奇麗な住宅が立ち並ぶ,街並みに変わっております。田畑の中にポツンポツンと立っていた藁葺の農家も、殆どが瓦葺の立派な邸宅と変わってその町並みの中に並んでいました。
父の実家のあった場所は、母屋も、離れも、蔵も、建物は全て取り壊されてなくなっており、がらんとして剥き出しになった土の上に、ちょろちょろと生えた雑草が風に揺れているだけでした。

しかし広々とした空き地の隅っこの所に、お隣のおたかばあさんの家だけは、まだひっそりと残されていました。無人の家は荒れ果てていました。藁屋根の藁はあちらこちら抜け落ち、軒は傾き、今にも崩れ落ちそうです。家の周りは人が入らないように板戸や竹、藁などで囲ってありますが、それらもかなりが傷んできており、それらの間や、剥げ落ちた土壁の間からは家の中が丸見えになっておりました。家の中はおばあさんが住んでいた時代のままに放り出されているようで、敷きっぱなしの布団らしい布、家財、衣服などが積み上げられたまま散乱しております。床も天井もところどころくさり落ちているようで、床はあちらこちらが凹み、床と土間との判然たる区別も出来なくなっており、天井からは何本もの板が床に向って斜めに落ちてきており、外観だけが、辛うじて家の原型をとどめているにすぎないといった状態でした。もっと大きな家だとばかり思っていたその家は、敷地の片隅にちんまりと立つほんの小さな家にすぎませんでしたが、その家には、私の幼かった日々の思い出がぎっしりとつまっており、涙が出るほどの懐かしさがこみ上げてまいりました。それは理屈を超えた、甘く切ない懐かしさでした。あの昔語りの中にでてくるような、おたか婆さんも、もう20年以上前に亡くなられて、この世には居られないとの話でした。

近所の人の話では、死ぬ少し前まで元気に歩き回っておられたそうです。ところがあるときから、突然姿を見かけなくなったものですから、お隣のおばさんが、心配して覗いて見られた所、布団の上でうつぶせになって死んでおられたとの事でした。

あの爪に火を灯すようにして貯めておられていたお金が、その後どうなったか知る由もありませんが、拾い集められた流木や日常つかっておられた衣服、寝具、家財などが家の中一杯に散乱して、腐るにまかされておりました。彼女の死後、家の中が整理されたような様子も無く、彼女が住んでいたときのままに、放り出されているといった感じでした。それらを見ていますと、元気だった頃の彼女の生活、顔や話しぶり、お話をしてくれた身の上話などが、昨日のことのように思い出され、切ないほどの懐かしさがこみ上げてまいりました。と同時に彼女の一生について、思いを巡らして見たとき、孤独と波乱の人生の哀れさに、涙がこみあげてまいりました。

あんなにもけちけちとして貯められたお金も、どこへ持っていかれ、誰がどんな思いで使ってくれたのやら。大切にしておられた持ち物も、今ではすべてがごみの山、そして丹念に拾い集めておられた川の流れ木も、山と積まれたままに、腐るにまかされております。人生とは儚い物ですね。生きていくという事は残酷なものなのですね。生きていく事の.むなしさが、冷たい北風のように心を通り抜けて行った一瞬でした。

それにしてもそういった時に感じる、あの切ないような甘酸っぽいような感傷は、一体どこから生まれて来るのでしょう。私の場合でも、幼ければ幼いなりに、悲しかった事や辛かった事などの嫌な思い出もあったでしょうに、それらは、網の目から滑り落ちたかのように、きれいさっぱりと抜け落ちてしまっています。そして祖父母や隣のお婆さんについての、ただ懐かしい甘酸っぱいような思い出だけが浮かんでまいります。記憶が、時の篩によって振り分けられ、甘い思い出だけが残ってきているといった感じです。そして強い辛さや、大きい苦しみ、悲しみなどといった嫌な思い出は、長い時間という篩(ふるい)によってゆっくりと篩い落とされ、幼かった時に感ずる程度の、淡くて弱い、嫌な思い出は、短い時間という篩によって割と早い時間のうちに篩い落され、こうしてどちらの場合でも、最後は甘酸っぱいような懐かしい思い出だけが、残ってくるという事になっているような気がいたします。

向井画伯の絵を見たときの父親の感想と私のそれとが異なっていたのも、この違いによるものではないかと思うのですが如何でしょう。それにしても向井画伯の絵に出てくるような古い田園風景に出会ったときの、このなんともいえない懐かしさは、一体どこから来るのでしょう。私達以降の世代には、もはや記憶の底にも残っていないような昔の風景なのに、これほどの感銘をあたえてくれるのは何に由来するのでしょう。それは先祖から受け継いできている民族の遺伝子の記憶による、郷愁なのでしょうか。あるいは無意識のうちに伝承されてきている文化の断片によって呼び起こされる懐古趣味によるものなのでしょうか。それとも、滅び去っていく物へ捧げる民族の心の挽歌なのでしょうか。本当に不思議です。

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